交流の歴史

同時交流成立にいたる背景:

同時交流が40年続いたということは、その実施 にいたる歴史的な背景にスポットを当ててみるよい機会でもあります。
独日青少年交流の発展に関連した出来事や、私たちのスポーツユーゲントの交流に寄与し た出来事を記してみるという試みをしてみたいと思います。
ただし私の試みは歴史的解明であるとか、学術的な作業ではありません。私が長年に渡って聞いたり、読んだりしたことを集めたものです。そこには少し私の推量もあります。
以下のテキストは最初の助走のようなものです。この先、補われたり、修正されていけば喜ばしいと思います。


最初のコンタクト まずは発端から:

色々な資料をみると、戦後のドイツと日本との青少年やスポーツの交流の一番初めは「ドルトムント国際学生週間1953」と書かれています。日本は1952年からオリンピック大会への参加が認められるようになりました。第2次世界大戦後、日本体育協会はすでに1946年スポーツ団体としての業務を再開し、その年に第1回国民体育大会を開催しましたが、当時第2次世界大戦の敗戦国として特に国際スポーツ大会への参加や国際競技団体への加盟から排除されていました。日本の学生スポーツも国際大学スポーツ連盟(Féderation Internationale du Sport Universitaire, FISU) 加盟が許されていませんでした。

今日のユニバシアードの前身であった1953年ドルト ムントで開催された大会に、日本の学生スポーツ連盟はこういう状況にもかかわらず、開催国からゲストとしてドルトムントへ招待されました。そしてサッカー、フェンシング、陸上競技に参加しました。1932年ロスアンジェルスオリンピック大会で三段跳び3位、また戦争中新聞社の特派員としてベルリンに滞在した大島謙吉は陸上競技の監督となり、団長には当時衆議院スポーツ議員団の代表であった川崎秀二(日独青少年交流の主唱者、また世界青少年交流協会 (WYVEA)の創立者として後述)が務めました。大島謙吉はドルトムント遠征の際、ひとつの重要な宿題をもっていました。

当時の日本体育協会の会長であり、横浜市の市長、全国市長会の会長であった平沼亮三は、日本の青少年の状況を非常に憂いていました。彼は青少年育成の組織を作りたいと思い、特に視線をドイツへ向けていました。大島謙吉はドイツとのつながりをつけることを言いつかりました。大島はボンの青少年とスポーツを管轄する連邦省を訪れました。迎えてくれたのは、そこでスポーツ担当官を務めるオリンピックの旧友ハンス‐ハインリッヒ  ジーフェルト博士(Dr.Hans-Heinrich Sievert)でした。二人は、青少年交流を始めることにすぐ合意しました。

しかしこれには連邦大統領の正式な合意が必要でした。「ドルトムントの国際 学生週間」の閉会式の時、格好のチャンスがめぐってきました:大島はテオドール ホイス連邦大統領に、恐らく立ち話で、このアイディアを納得してもらうこ とに成功しました。 大統領の合意を得て、日独青少年交流実施が取り決められました。

翌年(1954年)最初の日本の青少年グループがドイツ連邦共和国を訪れました。この単発事業として始められた交流は、川崎とドイツスポーツユーゲントの ディーター ブーフホルツ(Dieter Buchholz)の間の取り決められて、1963年まで続けられました。ドイツスポーツユーゲントが主に交流事業の運営を引き受けました。


オリンピック ユースキャンプの果たした役割:

ドイツスポーツユーゲントは1960年ローマオリンピックの際、国際ユースキャンプを実施し、日本から約20名の若者がローマへ招待されました。

1964年 東京オリンピックでは、今度は日本の番でした。主に動いたのは、恐らくローマでのユースキャンプに刺激されたのか、川崎代議士でした。この東京での「オリ ンピック ユースキャンプ」は、オリンピック大会の正式プログラムとして開催されたのではなく、日本の青少年育成の分野で活動している組織や団体の支援で行われました。もちろん1962年に創立された日本スポーツ少年団(JJSA)も参加しました。

1963年の国会内のオリンピック準備委員会の議事録にはユースキャンプ計画についての記録があります:東京の学芸大学の旧校舎を開催地とし外国からの参 加者1000名、日本の参加者200名で行う。政府は又財政的援助も予定しました。ドイツスポーツユーゲントは青少年省の依頼で、当時のdsj本部長 ディーター ブーフホルツを団長とする大規模な青少年デリゲーション(150名)を東京のオリンピック ユースキャンプへ派遣しました。当時の青少年・家庭大臣ブルーノ ヘック(Bruno Heck)氏はドイツ青少年団に同行して東京へ行きました。
当時のdsj事務局長のメーフェルト(Friedrich Mevert)氏が回顧しています。
東京でヘック大臣、ディットマン(Dr. Dittmann)ドイツ大使, dsjデリゲーションの幹部、日本側の代表が参加した会合で、ディットマン大使が正式な定期的な独日青少年交流を提案しました。この提案はすぐに賛成されました。

こうしてその翌年から、ドイツ連邦共和国と日本との間で正式な大規模の青少年交流(約150名)が始められました。
この交流は「ドイツ青少年の日本訪問」、「日本青少年のドイツ訪問」と呼ばれました。

1967年まで交互に実施されましたが、1968年からそれぞれの国で派遣と受け入れが行われるようになりました。
dsjはIJAB (Internationaler Jugendaustusch-und Besucherdienst, 国際青少年交流協会)の創立まで連邦青少年省から運営の委託を受けました。
1968年からIJAB がプログラムの運営と内容構成を担当するようになりました。dsjはその後もプログラムに参加しました。
1967年当時のdsj副本部長ハンス・ハンゼン(Hans Hansen)が150名のドイツデリゲーションの団長になりました。日本スポーツ少年団がこのグループの半分の受け入れをしました。ハンス・ハンゼンは日本スポーツ少年団とdsjとJJSA間での独自の指導者交流の実施を取り決めることに成功しました。
もうその年にJJSAの5名の指導者がドイツの青少年スポーツ調査のため来独し、3ヶ月にわたって色々な団体を訪れて青少年スポーツを含めた、ドイツのスポーツについての沢山の情報を集めました。その翌年青少年スポーツの15名の指導者団がJJSAを訪れました。

こ うして始められた指導者の交流は1970年までドイツと日本で交互に実施されました。札幌オリンピック冬季大会のため、JJSAの希望でこの交流は 971/1972年一旦中断されました。その後1973年から今日まで継続されています。
このような動きと平行して、2国家間で実施されてきた交流プログラム「ドイツ青少年の日本訪問」と「日本青少年のドイツ訪問」に対する評価は、特にドイツで批判的になり、参加者と内容の分析が行われました。
1974年「ドイツ青少年の日本訪問」に、このプログラムの質の向上について日本側と話し合うため、調査グループが日本へ同行しました。
この調査団は、家庭・青年・健康省、連邦青少年リング、IJABの代表で構成されていました。交流事業の現状についての報告書はかなり批判的でした。

当時行われた参加者の分析では、三つのグループに分けています:
参加者の20~25パーセントは、日本行きをよく準備し、後に指導者になったり青少年活動を熱心にやることが期待できる。
参加者の5~10パーセントは、日本へ行く前から、日本に対してネガティブな偏見をもっており、日本に到着してからはネガティブな日本に対するイメージの 裏づけを探していた。彼らは日本を変えることを使命として、その試みをした。
参加者の65~70パーセントは、観光的関心から、提供されたプログラムを消費した。 さらにプログラムの内容は、不十分ないし、青少年政策的にみて質が低いと評価されました、表面的な交流プログラム、おざなりのインフォーメーション、お決まりの見学プログラム、大げさな公式プログラム、観光的要素が内容となっていると判断されました。

このような2ヶ国間のプログラムを連邦青少年計画の補助金の対象とすることが疑問視されたのです。同時交流の初期にもこのような問題が議論されたことがあります。
この報告を背景として、ドイツでは交流の中止か、プログラムの質の向上かが考えられました。伝統的な青少年交流プログラムを改善の試みもせずに突如として終わりにしてしまうことは忍びないと思われました。

ここで、すでに1970年連邦家庭・青年・健康省のイニシアチブで日本の文部省に青少年育成の専門家の交流を立ち上げることを提案していたのが幸いしました。
1971年から青少年活動を専門とする指導者のための独日研修プログラムとしてこの提案が実現されました。
公式日独青少年交流改善のため1974年日本へ派遣された調査団は、いくつかの提案を携えていきました。
例えば参加者数の削減、青少年政策として意義のある研修とコミュニケーションのプログラムへの変換、開発途上国などの青少年政策上のパートナーにも参加してもらう、又デリゲーションをいくつかの分野別の グループに分けることなどでした。青少年交流のための新しいコンセプトを作ることは叶いませんでした。
1975年両国の協働関係の重点は、専門プログラムへ移され、一般青少年交流は中止されました。

独日青少年公式交流を最初から支えてきたdsjの内部でも、特に国際専門委員会の内部では(長年委員長を務めたのはルーディ ミュラー (Rudi Müller)でした)、色々討議されました。交流を続けたい。
そこでJJSAと独自の道を行くこと、つまり独自の青少年交流を検討し、1974年独日ス ポーツユーゲント同時交流がスタートラインに立ちました。

高橋範子



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